自由と権利を求められる社会

一昔前を知っている私は、病院の先生つまり、お医者さんは「先生!先生!」と呼ばれ、尊敬されていました。
もちろん今も尊敬されていますし、病気から救ってくれる姿は一種の神様のように感じます。
私も病院勤務をしておりますが、患者様に治療中断や途中退院の意思があっても、医者がそんなことは許さない。例え、気難しくて傲慢な医者でも、「先生」という概念は、「先生の言う事だから仕方ない。」あるいはその家族も「先生の言う事をしっかり聞きなさい!」というような感じだったことを記憶しています。
まさに、『患者に選択肢はない』というような感じだったと思います。
それは、学校でも同じようなことがあったように思います。教師と生徒の関係は主従関係のような形で、生徒の選択肢はずいぶん少なかったように感じます。
こういう社会的な弱者と呼ばれるような人たちは、言いたいことや主張したいことを我慢し、時には自分の尊厳も傷つけられることもありながら、グッとこらえてきたという場面も少なくなかったことでしょう。
こうした背景の中で、個人の尊重を見直しながら社会が今の時代を作ってくれたと思います。

選択の自由と選択肢の多さ

今は、赤い洋服を買おうと大手アパレルショップに行くと、何種類もの赤い服があります。一言で『赤色』と言っても、赤い色の種類は昔よりずいぶんと増えました。そのおかげで、自分のイメージする赤に出会える機会も増えて、買い手の満足度は昔に比べ断然上がったと思います。
仕事にしても今は様々な職業があります。資格を取得するための手段も増え、いつからでも、どこからでも学べるようになりました。
我々はこれだけの選択肢と、選択の自由を与えてもらい、とても過ごしやすく生きやすい世の中になったと思われます。
…が…想像してみて下さい。
「ホントはもっと違う赤が良かったんだけどねぇ~」という言葉はもはや通用しませんし、「ホントは〇〇になりたかったんだけど、もうその機会はないし、遅かったなぁ~」なんてことも言いづらくなりました。
「たくさんの赤がある中で、その赤を選んだのはあなたでしょう?」と。
「学ぶ機会はたくさんあるし、情報だって今はどこからでも手に入るけど、しない選択をしているのはあなたでしょう?」と。
つまり、選択肢の多さと選択の自由があればあるほど、選択した自分への責任は大きくなっていくのです。
「医者が言うんだから仕方ないよね。」「お医者さんがうるさくてさぁ~。」なんて言葉が通用しづらくなっているのです。
目の前に選択肢がたくさん並んでいて選び放題。しかし、何を選んだらいいのか分からない。何が正解なのか分からない。しかし、選択を迫られて選択すれば、責任は自分にのしかかってくる…。「これだけの選択肢があったでしょう?」「その中であなたにちゃんと選択させたでしょう?」と。
このような視点で考えてみると、一概に過ごしやすく、生きやすい世の中になったわけでもないと思えるかもしれません。

これを選択してよかったんだ。という自己肯定感

選択の責任を誰かに課すことが出来ないということは、自分の逃げ道が少なくなったということでもあります。
厳しいお医者さんも、指示したからには責任もとってくれていた人が多かったように思います。
厳しい学校の先生も、「学校に来い!」って問答無用で言ってたけど、勉強の面倒もちゃんと見てくれていた人が多かったように思います。
もちろん、今の社会でも、責任を一緒に負ってくれたり面倒を見てくれる医者や先生は大勢います。
しかし、昔より選択肢が確実に増えた世の中で、あらゆる選択をこなしていくのは、その後の成功や失敗に左右されず、「これを選択してよかったんだ。」と思える自己肯定感が必要なのかもしれません。
それは、幼少期の頃から周りの大人が選択を否定せずに肯定し、失敗したときは一緒に考えることと、自分自身は選択による小さな成功を積み重ねて、自己効力感を高めていくことが必要なのではないかと感じます。