ブログ第一回目は、人間はとにかく忘れていく生き物であるということと同時に、実はかけがえのない日常も忘れてしまっている可能性があるということをお伝えしていきます。
階段を一歩ずつ上がるように過ごしてきた人生を、ぶつ切りで見ている
皆さんは、昨日の夕食が何だったかすぐに思い出せますか?
昨日の夕食が思い出せたとして、ではその前の日の夕食は? 1週間前は?
私たちは、明日の仕事のことや1週間後の約束のことは意識して覚えようとしますが、過ぎたことはあまり振り返る機会を持ちません。
それは仕方のないことだと言えると思います。明日のスケジュールや1週間後の約束を忘れてしまうと自分の信頼に傷がついてしまい、仕事にも影響する可能性があるからです。
そもそも動物は、忘れる生き物です。それが自分の身を守ることにもなるから。
しかし、自分が覚えておきたい記憶。心の温まるような記憶もこの機能によって忘れてしまっていることが多くあります。
先程の夕食の話なら、夕食のメニューが何だったかということだけを考えると、大した記憶でもないかもしれませんが、その食事は誰が作って、誰と食事を食べて、その時どんな会話をしたのか。このようなことまで辿っていくと人とのやりとりやつながりが見えてきますよね。
つまり、私たちは何気ない日常会話や日常行動は、時間とともにすっかりと忘れてしまっている可能性があるということです。
自分にとって嫌な出来事を経験したり、辛い出来事が一定時間続いたりしてしまうと、その人のこれまでの人生そのものが、『嫌な人生』と書き換えられてしまうこともあります。自分の人生トータルで見なくても、ある人物に対して嫌な感情を持つと、その人物はたちまち自分にとって『嫌な人間』になってしまう。
自分が受けた相手の嫌な行動が強ければ強いほど、ある期間持続して嫌な行動が続けば続くほど、それは強い記憶として残り、相手に対して陰性感情を抱いてしまう。
その対象が自分の人生にあまり関わりのない人物や、そこまで思いのない人物であれば、そのような人がいたなと思う程度で済むかもしれません。しかし、自分にとって近しい存在である人物であれば自分自身も悲しくて、辛い思いをするものです。
そうしていくとやがて自分は不幸な人生であり、その人物に人生を壊されたような思いに支配され、生きることさえも辛くなっていく…。『私は誰からも相手にされていない』『愛されていない』生きづらさを抱えていく。
そもそも動物は、忘れる生き物です。今まで歩んできた人生の中で、色んな人と出会い助けられ、また自分も助けてきたはずなのです。後ろを振り返ると険しかったことも、嬉しかったこともあったはずの人生が長く自分を作ってきたはずなのです。その中のほんの一部を見ているのに過ぎないのかもしれません。恨み辛みに支配され、その一部しか見えないようになってしまっているのかもしれません。
次回は、忘れている記憶を思い出すことが何になるのかを伝えていきたいと思います